丹後に残る伝説や謎
丹後には、小野小町、静御前、ガラシャ夫人、浦島太郎など歴史上の人物にまつわる伝説が多く残っています。また、丹後にはその昔、王国があったと言われています。
丹後に残る伝説
- 丹後王国open
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大和朝廷以前、丹後には「大規模な王国」があったという説があります。その象徴として、丹後半島の巨大古墳は、4世紀後半に造られたものが多い。また、間人(たいざ)周辺には、日本海側では最大級の神明山古墳、形状から「王者の棺」と呼ばれる長持形石棺が出土した産土山古墳、古事記や日本書紀に記載のある「竹野媛」を祭った竹野神社など、歴史遺産が数多く残っています。これらのことからも、丹後にはこの地域を支配した海の豪族の姿があったと想定されます。
- 湯舟坂二号墳
- 須田古墳群の一つで金銅装環頭大刀が出土した。
- 古代の里資料館▸
- 京丹後市内から発掘された考古資料などが展示。
- 竹野神社
- 丹後三大古墳の一つ「神明山古墳」の近くにある神社。
- 神明山古墳
- 前方後円墳。網野銚子山古墳に次いで日本海側最大級の丹後三大古墳のひとつ。
- 丹後元伊勢伝説open
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日本国中に疫病が大流行し、国民の半数が死亡するほどの猛威を振るいました。この国難を、宮中で祭祀している天照大神と倭大國魂神の不仲によるものと考えた天皇は、天照大神を皇女豊鍬入姫命に託して祀らせ、倭大國魂神を市磯長尾市に託して祀らせ、占いの結果祟りをなしている事が判明した大物主神を太田田根子に託して祀らせたところ、ようやく疫病は収まりました。天照大神が伊勢神宮の内宮に鎮座する以前に立ち寄った先を、元伊勢と呼びます。
- 籠神社▸
- お伊勢さまのふるさと、元伊勢の一社。
- 海人伝説open
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丹後にはかつて、航海術に秀でた「海人族」と呼ばれる一族が住んでいたと言われています。古代この地方は、漁や、塩つくりなど、海にかかわって生活する人びとによって開かれていきました。そして火の神、「天火明」を先祖神とするこの人びとを「海部(あまべ)」と呼んだそうです。
- 矢田神社
- 久美浜町「海士(あま)」という地名にある神社。
- 海部小学校
- 「海士(あま)」の近くにある「橋爪(はしづめ)」という地名にある小学校(現在は統合により廃校)。
- 籠神社▸
- お伊勢さまのふるさと、元伊勢の一社。
- 浦島太郎伝説open
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「うらしま太郎」の故郷と言われているのが伊根町です。伊根町にある浦嶋神社には今も伝説の玉手箱が保存されています。
また、浦嶋神社を出て、本庄浜の方へ少し行くと竜宮に通づる穴「龍穴」があります。- 浦嶋神社▸
- 浦嶋子(浦嶋太郎)を筒川大明神として祀る神社。
- 本庄浜
- 浦嶋神社のすぐそばにある海水浴場で、物語の中で登場する「常世(とこよ)の浜」はこの本庄浜海水浴場といわれています。
- 龍穴
- 浦島太郎が竜宮城から帰ってきた穴と伝わっています。浦嶋公園を出て本庄浜の方へ少し行くと「竜宮に通ずる穴」と記された小さな看板があります。
- 鬼退治伝説open
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古来から大江山は鬼の住処として知られていました。中でも、英胡・軽足・土熊(土車)の3匹の鬼が人々を苦しめていました。
大江山には有名な酒呑童子の伝説をはじめ、麻呂子親王(まろこのしんのう)の鬼退治伝説、日子坐王(ひこいますのきみ)鬼退治伝説と3つの鬼伝説が伝えられています。
そのひとつに、麻呂子親王が、土熊を竹野で生け捕りにし、丹後の岩に封じ込めたと言われ、その岩が「立岩」だと伝えられています。- 立岩
- 竹野川河口にある高さ25m、周囲1kmもある玄武岩。
- 聖徳太子母子像
- 丹後町間人の海岸の浜辺には「聖徳太子母子像」があります。ここは、聖徳太子の母である、穴穂部間人(あなほべのはしひと)の里。
- 静御前伝説open
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源平の激しい合戦の中で、その短い生涯を終えた悲劇のヒロイン。網野町の出身と言われています。網野町の磯集落のはずれには、静御前のはかない人生を哀れむように、小さな神社がひっそりと建っています。
- 静神社
- 「悲劇の英雄」源義経の愛妾であった静御前を祀る神社。
- 徐福伝説open
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徐福は、「始皇帝の求めている仙薬を求めてやってきたが、ここにある仙薬は、少なく、このままでは、秦に帰れない」として、漂着した伊根町の新井崎に住みつくようになりました。徐福の求めた仙薬は、「九節しょうぶ」と「黒茎のよもぎ」 であったといわれています。
- 新井崎神社
- 徐福を祀っているとされている新井崎神社。
- 小野小町伝説open
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小野小町の伝説が残るのは丹後の大宮町。絶世の美女と呼ばれた小町が、四位深草の少将の猛烈なラブアタックに耐え兼ねて、都から姿を隠し、小野一族の荘園であった五十河(いかが)の里に移り住んだとされています。
- 小町公園
- 大宮町五十河(いかが)の里は、百人一首で知られる平安時代の歌人小野小町のゆかりの地。
- 羽衣伝説open
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日本最古の羽衣伝説と思われるものが、峰山町に残る羽衣伝説です。「丹後風土記」の逸文によると、磯砂(いさなご)山麓で、七人の天女たちが水浴をしていたところ、そのうちの一人が土地の老夫婦に衣を隠され天に帰れなくなり、仕方なく養女になったとされています。今も峰山町には、天女を祭る神事が受け継がれています。
- 磯砂山
- 日本最古の羽衣伝説発祥の地とされ中腹には羽衣が舞い降りた女池や山頂には碑があります。
- 乙女神社
- 天女は羽衣を隠した狩人と結ばれ3人の娘を生みますが、再び羽衣を手にして天上へと帰っていったと語り継がれる羽衣伝説。その娘の一人をおまつりするのが乙女神社。
- 和泉式部伝説open
- 京都府の北部、丹波・丹後には、和泉式部が訪れたといわれる地が多く残っています。峰山町に伝わる和泉式部伝説は、保昌が丹後の守の任期を終えた後も丹後に残り海山の眺望を生涯の思い出としてこの国に優れた歌を残すように言われ、丹後の国にとどまったと言われています。
- 間人皇后伝説open
- 大和の国の政情が不安だった頃、聖徳太子の生母、間人皇后(はしうどこうごう)も、都の混乱を避けて、大浜の里(現丹後町間人)に隠棲されていました。やがて皇后が大和の国へと還幸される際、里人たちの手厚いもてなしに報いようと、この地に間人(はしうど)という名を与えたのですが、人々は、あまりにも畏れ多いと、退座されたことにちなんで、間人(たいざ)という地名を残したとされています。